つくばね

はじめに

 その1(調査開始編)、 その2(調査・研究編)で調査したことを元にして筑波にやってきた八丈島難民(開拓民?)の話をお話風に書いてみました。なるべく事実は多く取り入れましたが、分からないことが多いので私の創作もはいってっていることをお断りします。 また主人公の定右衛門は実在の人物であり八丈島では格式高い家の方で、決して流人ではなかったことも初めにお断りいたします。

 

文章中のカッコにはいった小さな数字は参考文献の番号で、このページの下に一覧表をつくってあります。正確な歴史や情報が必要な場合はそれらの文献をご覧下さい。

1 八丈島

 慶長11年(1606)年に宇喜多秀家とその家来13人が、その流罪地としてやって来たのを最初に、八丈島にはその後幕末までに1877人の流人が送られた(10)。八丈島の場合、流罪となって来る人は政治犯をはじめ、かなりインテリが多かった。「鳥も通わぬ八丈島」と呼ばれた流刑地であるこの島は東京から南に290Km、その間には別名「黒瀬川」と呼ばれる黒潮の流れがある。 今でこそ東海汽船の大型客船が難なく定期航海をしているが、江戸時代、この7ノット(時速13Km!)にも達する早い流れは八丈島と本土の間を遮断し、冬の強力な季節風と相俟って八丈島を絶海の孤島としていた(10)。 この島の場合、流人が拘束されたり、苦しい労働を強いられることもなく、島民とも差別無く「ふつうの」接触をしていたので、この八丈島民の心の広さを「情け島」とか「情け島八丈」と呼ぶ。気温も常春でその点では島民にも流人にも住み易い島だった。ただ、飢饉が多発するということを除けば・・・。

2.天明の大飢饉

 今から200年以上前のある日、八丈島の島民は不気味な音が響くのを聞いた。 島全体、それどころか、船で沖に出ていた漁師すら海の彼方から不気味な音を聞いた。それは遠い雷鳴にも、地響きにも感じられた。 なんとこれは遠く八丈島から380Kmも北の信州、浅間山が空前の大噴火を起こした時の轟音だった(04)。

 

 天明3年(1783)7月の6日、から8日にかけ、現在の長野県北佐久郡と群馬県吾妻郡にまたがる浅間山が大噴火した。いわゆる「浅間焼け」である。この噴火は凄まじく、130Km離れた江戸に3cmの灰がつもり、約2000人の死者を出し、関東平野全域を不毛の地とし、近くの鎌原村93軒を火砕流で埋没させた。 現在どこの園芸店で売っている「鹿沼土」はこの時噴出した大量の火山灰そのものである。 さらに細かな火山灰は成層圏に達しエアロゾルとなって停滞し、ただでさえ寒冷期にあった北半球全域の気温を数年間にわたり数度低下させる要因となった(05)。そのあいだ上空大気は濁り、昼間でも太陽が鈍い赤銅色に輝いたという。

 

 それら天災に加え幕府が米作りにまだ馴れていない東北地方に稲作を強要したり、「隣の藩の飢饉は助けない」というその時代の政策が「津留(つどめ)」、あるは「荷留(にどめ)」と呼ばれる食料流通の制限となって現れ状況を悪化させた(13)。 続く天明5年には隣の青ヶ島が島の形も変わるような大爆発を起こし、青ヶ島全島民約200名が八丈島に避難してきた(09)。 このことは流人の増加と共に八丈島の食糧事情をさらに圧迫した。 この話のキッカケとなった古文書を残した定右衛門はまだ(推定十代?の)若者であった。 彼は若年にして名主見習い、そして地役人年寄方も勤めることになる(12)。 しかしこの時はまだ、後に自分がこの青ヶ島の人たちのように遙か海を越えた未開の土地に避難(開拓?)することになるとは思いもよらなかった。

 

 定右衛門も、本土で大洪水が起こり(14) 飢饉がさらにひどくなった噂を聞いたであろう天明7年、船で本土から来た者が疱瘡を流行らせた(10)。 この時定右衛門の住む八丈島南端の末吉村に近い中之郷で20人が死に、もう少し三原山沿いに進んだ所にある樫立村では300人がほぼ全滅した(10)。 当時のように隔絶した「清浄な」島の住民に、内地の病原体に対する耐性は無かったのである。 八丈島が伊豆七島では大島に次いで大きいと言っても、やはり島は狭い。現在でも車で走れば一日に数台の知り合いとすれ違う。天明の疱瘡で定右衛門の親戚、友人も多数、命を失ったに違いない。これらの災害を更に増幅する要因が八丈島にはあった。島特有の強風による風害、塩害、高潮、ネズミ害、どこからともなくやって来る虫害、そして水田を作れない土地も災いした。(因みにこれらの害は現在では全て完全に克服されている)

 

これら悲惨な状況を目にした定右衛門はふと十五年前に初めて本土へ開拓に行った連中(出百姓)の事を思い出した。「内地なら飢饉や災害も、ここよりはまだマシなんじゃないだろうか・・・」青年となった定右衛門の心に内地の可能性へ挑戦する気持ちが宿った。

 

 余りにひどい飢饉が長く続くので改元がなされ「寛政」となって4年目、久しぶりに出百姓100名が内地に送られた。 「出百姓」とは安永元年(1772)に初めて行われた八丈島の飢饉対策の一環であり、一種の人口の削減策である。後に規制は緩和されたが、この寛政4年の対象者は島民の2男3男で、女、子供、長男、流人は対象にされなかった。 結局、お役人が考えたこの計画は実行されたものの、内地での待遇の悪さ、家族が共に行けないなどの理由で定着せず、失敗に終わった(10)。

 

 定右衛門が壮年にさしかかる頃、またも疱瘡が流行った。今度は以前の時より更にひどく、大賀郷で450人、三根で500人が死んだ(10)。この再び起こってしまった悲惨な事件を目の当たりにして定右衛門の心は決まった。「内地に行こう」。

3.定右衛門の決断

 当時、黒瀬川(太平洋の黒潮)の激流や季節風を縦断して内地まで行ける船は幕府の官船(千石船)しかなかった。 それですら三宅島?伊豆半島経由で風を見ながらの航海となり、何ヶ月も風や流れを見るため停泊しなくてはならなかったし、時には難破もした。しかも目的地の関東周辺は浅間山大噴火による火山灰で荒廃しており、筑波山近辺の多くは不毛の地となっていわゆる「潰れ百姓」、「駆け落ち百姓」が増え、事実上ゴーストタウン化した村が増えていた。 そこで幕府は現茨城県上郷村の角内に創設していた「人足寄場」の人足を、今は廃村同様となったこの地域の開墾にあたらせた。 「人足寄場」とは、当時の飢饉でやたら増加した江戸の無宿人を収容し更正させる施設であり、「鬼平」で有名な長谷川平蔵の提案によって当初江戸の佃島近辺に設置されたものである(06)。 後にこの人足寄場に八丈島の難民が強制移住されたとの記録があるが土地があまりに粗悪で成功しなかったようである(11)(15)。 定右衛門が内地への移住を決行する三年前のことであった。

 

 飢饉の時期に敢えて荒涼たる内地に僅かな希望を抱き、強制ではなく自分の意志で故郷を捨て、黒瀬川の激流の遙か彼方に出発するということは現代では考えられない勇気が必要であった。 佐々木定右衛門は島民のために役人に直訴し、自らの力で渡海を果たした勇気ある、初志貫徹の人であった。 

 

 時は文化元年(1804)、末吉村年寄(組頭)となった定右衛門はその有志六名を引き連れ、現地調査のため遂に常州筑波郡、口の堀村へ入植した。 苦しい開墾生活での苦闘の歳月は流れ、早くも10年の歳月が流れた。その間には出百姓制度の改良、八丈島への薩摩芋の導入、間宮海峡の発見など、様々な事柄があった。 幸いこの定右衛門の入植は成功を収め、村も安定した生活をどうやら送ることができるようになった。 本土に入植して更に5年の歳月が流れた 15年目、定右衛門は八丈島から第二陣を呼んだ。 総勢41(記録によっては42)名の大人数である。 危険で長い渡海時の船上も満員だったことであろう。 彼らは定右衛門の成功とその言葉を信じ、彼の入植した土地の周辺、筑波山の南西側に弥平太村、遠東村、中東村、酒丸村、鍋沼村の五つの村を作り「八丈村」と称した。 

 

 現在は既に八丈という地名は見あたらないが、他の地名のいくつかは今でも国土地理院の近く、つくば市要(カナメ)とそれ以西に見ることができる。 今では郊外の洒落た住宅とテクノパーク、ハイテク工業団地が郷土の誇る紫峰筑波山を望む豊かな自然のなかに作られており、とても当時の開拓の苦労を知ることはできない。

 

 文政2年(1819)6月、年老いた定右衛門は八丈島の知り合い(?)から4月にもらった手紙に対し返事を送る。 これが本特集のキッカケとなった文書であり、180年の時空を越えてその要旨が「つくばね」編集部に送られてきたものである。 私は「長戸路文書」と呼んでいる。 本文は毛筆の草書体の文字を使い、候文体で、N氏が活字になおしてくれたものを読んでも解らないところが多いのだが、その中に書かれていて理解できた言葉を、私の言葉になおして紹介する(カッコは内は私の補足説明)。

 

(定右衛門が筑波から八丈島の知人?に送った返事の手紙)

・・・中略 ・・・ 島の方にあらせられましては近年の貧作、特に麦(八丈島に水田はない)の不熟、そして養蚕の壊滅的被害、その上、渡海までも(天候)不順のため難儀されている旨を聞きまして、その大変なご苦労に書く言葉も見つかりません。・・・中略 ・・・
七転び八起ということわざがあります。七転ならば七回起きれば、それらの災いは無かったことと同じです。 そして八起すればその努力に見合う良いことが一つ叶うはずです。 ですからみなさん、力を落とさず努力し、この難局を乗り越えましょう。

 

? 以下原文 ?

 

人は七転八起と言う 七転ならば 七起にて可済事 八起と言えば能事一ツ増し候 此意以 不力落 御出精可被成候

 

 結局、定右衛門は200年近くも前に、自らの決断によって筑波の開拓と八丈島の難民救済、島の飢饉の緩和に成功した。 しかしその詳細の記録は極めて少なく、筑波はおろか八丈島にも殆ど残っていないそうである(12)。 この定右衛門の情報を「つくばね」に送ってくれたN氏の話によれば、定右衛門はいつしか、つくば市要新田に鎮座している弥平太神社の主祭神になったそうである。

このページで使った参考文献

O4.大系 日本の歴史10 江戸と大坂  竹内 誠 著、小学館ライブラリー 950 円
O5.地球工学ハンドブック  芽 陽一 編、オーム社 平成5年第1版 9800円

O6.角川 新版 日本史事典 角川書店 1996年初版  3400円。
09. 島焼け 高田 宏 著 新潮社 1998年第2刷 1500円

10. 八丈島誌 八丈島誌編纂委員会 昭和48年 非売品
11. 豊里町の歴史  豊里町編?

12. 長戸路文書  未公開古文書
13. スーパー日本史 講談社 1991年1版 古川清行著 3900円

14. 図説茨城県の歴史  河出書房新社  1995年新版 5400円
15. 鬼平・長谷川平蔵の生涯 新人物往来社1999年第1版 2800円

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