つくばね

筑波嶺詩人の軌跡を巡る

 1998年3月中旬の暇なお休みの日に、「はやく筑波登山巡りの続きをしたい。でも名所があちこちにあるから効率よく回るにはどうしよう?」などと思い、いつも愛読している筑波山関連の本でコースを調べていると「筑波嶺詩人」なる項目を見つけました。私は文学とは全く縁がない人間ですが何故か「はて、なんなんだろう? 筑波山に関係するなら取材せねばならん!!」と、思い、今回の撮影旅行(私は「取材」と言うことにしている)に出かけることとしました。

 

 

 少し調べてみると、生家の坂井町は筑波山のすぐそばみたいだし、生家は「横瀬夜雨記念館」になってるし、近くに詩碑もある。そうだ、詩のことはわかんないけど、とにかく明治の時代に私と同じように筑波山を愛した人間には違いがない。 とにかく行ってみよう!とのことで急遽、同年同月の21日土曜日、またまたメタリックブルーのスポーティーな愛車にいかつい大型3脚をはじめデジカメまで撮影機材を満載して35Kmくらい離れた目的地に車を飛ばしました。

 

 実は行ってはみたのですが、展示館となっていたはずの生家はどう見てもただの民家だし、わずかに入り口に「横瀬夜雨の生家」と書かれた解説看板と石碑があるだけ。 中に展示館があるとしてもなんだか入りにくい。 近所の人(この方も横瀬さんでしたが)に「あの?、ここら辺に横瀬夜雨の展示館があるって聞いたんですけどぉ?」と聞いてみると、40歳前後の夫妻は「それは去年、下妻市の博物館に移転して行きましたよ」と言い、行き方まで丁寧に教えてくれた。

 

 親切な夫妻の言うとおり国道125号線が鬼怒川とぶつかるところを曲がり(大きな石材店が目印)県道15号線を少し北上すると、確かに「下妻市ふるさと博物館」があった。平成8年にできたばかりのため、大変きれいな建築物で駐車スペースも広い。 入り口を入ったところの受付で金200円也の入館料金を支払った後、ふとその横を見ると横瀬夜雨の資料や土器に関する資料を販売している。 思わず私は「横瀬夜雨の人と文学」、金1300円也を購入してしまいました。

 

 館内は縄文に始まる下妻市中心の歴史から始まり、昭和61年に起こった小貝川の大氾濫まで実物の土器や最新の特殊ビジョンで解説があった。 小貝川はかつて何度も氾濫した暴れ川で、昔の人は一時待避のための「水塚」と呼ばれる数mの高さの小山を自宅の裏に作り、そこに倉を建てて非常食量、船、雑貨を常に準備させていたそうである。 現在は小貝川の氾濫以来、完璧な防災、氾濫対策が施され、もうかつてのような「暴れ川」ではなくなったのでこの「水塚」も徐々に姿を消しているそうです。

 

このように氾濫などが起こらないようにする「治水」そして飲み水などを確保する「用水」に加えて小貝川を親しめる川にする事を「親水」と呼び、近頃では流域に公園など市民の広場を作っているそうです。 

 

さて、そのような展示物を一通り眺めていると、博物館の最後のコーナー(というより最後の部屋全体)が夜雨の記念展示室になっており、下妻市の横瀬夜雨に対する情熱の高さを伺い知ることができました。 

 

展示は彼の生い立ちをつづる23分間のビデオ映写装置から始まり、詩の朗読装置(10種類位の代表的な詩をボタンで選択すると、TVでよく聞く声の有名なナレーターが朗読してくれる)、愛用の机、椅子、硯、原稿をはじめ、河原酔めい、北原白秋、野口雨情からの手紙など、夜雨ファンにはっとたまらないであろうものが所狭しと並んでいました。

 

 

 この展示物の中で「小貝川にも詩碑がある」との情報をキャッチ、筑波山頂の詩碑に続き、ここも一応写真に収めようとまたまた急遽引き返して先ほど訪ねた生家近くにある「オオムラサキの森」なる公園に車を停めて、そのやや北側にある詩碑に向かうと、そこにはもう一つの代表作「やれだいこ」の刻まれた石碑が遠く筑波山を斜めに見ながら桜などの木々に囲まれて建っていました。

 

「そうか、明治の時代に夜雨はここから同じようにあの筑波山を見ていたんだろうなあ」と感慨に耽り、ひとしきりの撮影を終えてるともう大分日も傾き初めたため家路につきました。

 

 横根の村落から見えた筑波山は広大な林の向こう側に大きく聳えて立ち、見慣れた友達のような雰囲気とは違う風格をたたえていました。

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